平田一式飾とは

一式飾〜弁慶と釣鐘

 その名称が示すとおり、身近な生活用具である陶器、仏具、金物、茶器、自転車部品等その一式で、神話、歴史上の人物、おとぎ話やテレビ等で話題になったものなどの一場面を独特な発想・技巧を凝らして飾り競う平田地域の民俗芸術です。

 一式飾の決まりごととして、一つは一種類のもので飾らなければならないことです。陶器なら陶器だけという場合と、仏具、文房具など用途が同じものを一種類とみるものの二つの考え方があります。もう一つは、材料に穴を開けたり、色を塗ったり、変形せずに作り、解体すると元通りに使用できなければならないという決まりです。

一式飾の起源と由来

 平田寺町の「一式飾史要」によれば、宝暦2年(1752年)に当地方に悪疫が流行した際に、天神の御神幸(おたび)の祭典が行なわれることにより退散したと伝えられています。寛政年間、寺町の住人で表具師の桔梗屋十兵衛は、平田天神への信仰にあつく、悪疫の有無にかかわらず、天神の御神幸の祭典が恒例になるように、かつ神輿(みこし)の御腰掛けを祈願したところ、寛政5年(1793年)これがかなったので、獅子で神輿を迎え、かつ茶道具一式で「大黒天」を考案し、神慮をなぐさめ奉ったといわれており、これが一式飾の起源とされています。

 したがって、一式飾は平田天神の信仰と切っても切れない関係にあり、約220年もの間、毎年7月20日から3日間、平田天満宮の夏祭りには、各町内が競って一式飾を奉納し、参加町内の数に変動はあるものの、一度も途切れることなく飾り継がれてきました。

一式飾保存会

 この一式飾が戦中戦後の混乱と社会状況の変化によって、伝統の継承が危ぶまれた状況の中、忘れてならないのが千把雲陽氏(1889年~1975年)です。雲陽氏は、一式飾を継承しようと、町内の人々に技術を指導し、後進の育成にあたり、作品も多く残されています。

 その後、昭和27年に「平田町一式飾保存会」が結成され、昭和43年に「平田市一式飾保存会」、平成17年の平成の大合併により平田市が無くなったため、「平田一式飾保存会」へと名前を改め、現在に至っています。

 当保存会は、現在賛助会員約290名、その内20名の役員と、一式飾の制作・指導等を担当する技術部9名によって技術保存、後継者育成等に取り組んでいます。

平田一式飾の変化

 『一式飾』は、江戸・明治時代には『飾り物』・『造り物』と呼ばれていたようですが、大正時代から『一式飾』となりました。

 材料も、江戸・明治時代には茶器等が多く、飾りそのものが小さく(40cm~50cm)造られていました。大正時代から戦前戦後には陶器、仏具、その他多くの材料が使われ、人形等も等身大となり、各町内が競うことによって、技術の進歩がみられました。

 材料も各町内で準備用意していましたが、保存会が陶器、塗り物、仏具等を氏子から寄附を受けたり、窯元へ出向き購入し、管理保管するようになっています。

 飾り宿も、飾りが大型化していく中、各家庭の座敷等では、釘を打ち付けたり針金などを引っ掛けたりして、傷をつける恐れがあり、車庫、空き店舗、集会所などが多くなっています。

 飾りも、祭りが終わったら解体していたものを、公共施設、商店の店先や展示施設で常設展示するようになっています。